アニマルコミュニケーションのご案内

2014-03-14

Happy

Pharell Williamsの満を持したアルバム『GIRL』を購入、これは気分上がるわ〜☆
ホント天才ってありがたい。


昨日はとってもうれしいことがあった。
ほんと、ファレルのHappyの歌詞じゃないけど、
Clap along if you feel like a room without a roof♪ な気持ち。


アニマルコミュニケーションを細々と(?)続けてきてよかった、と心から思った。

全然努力も勤勉さも足りないんだけど、
…たまにしかやってないし

でも、それでもやめなくてよかった、と思う。


まだ始めて十年にも満たないが、様々なコミュニケーションをさせていただいてきた。
その中でも強烈に印象的なことがいくつかある。
やはり、生命に関わるようなことは強烈だ。


「咬むのでもう保健所に連れて行く」と犬にお怒りの方へ(包帯巻くほどの酷い怪我)犬の気持ちや性質を伝えた結果「そんなこと言ってごめん」と犬に言ってくださり気を変えていただけた時。
私は「力が及ばなくて保健所に連れて行かれて殺されたらどうしよう」とものすごく怖かった。

末期がんで食事を摂れなくなった猫が「もう病院へ点滴しに行くのをやめたい、死ぬのは怖くない」と言い、飼い主さんが迷ったのちその願いを聞き入れ、猫は生き生きと最期を過ごし、お返しに飼い主の腕の中までやって来てから旅立った時。
私は「私の受け取ったと思ったメッセージが実は間違っていて、結果猫が早く死んでしまうのだとしたらどうしよう」と責任重大に感じ怖かった。

新しい個室を与えられたうさぎがごはんを自力で食べなくなり、「以前のように家族と一緒に過ごしたい」と言い、ご家族がすぐそのようにしてくださったらごはんを食べ始めてくれた時。
これも「食べ始めなかったらどうしよう」と怖かった。

「今は仲間の亀が死んでとても悲しい、だからコミュニケーションはやる気がしない」と伝えてきた犬。
これは私自身が、犬が亀の死をも当然悲しむことに気づけなくてなかなか“悲しい”理由がわからず、自分の中で動物間の差別があったことを思い知らされた。

入院中の犬が「家に帰りたい、もう自信がない」と伝えてきて、ご家族ですぐ迎えにいってくださった帰り道に、ご家族に見守られて旅立った時。
これは自分は旅先で、且つ切羽詰まった状況、一刻を争う状況でやったので通常のコミュニケーションの“落ち着いてリラックスして”なんてとても言えない状態からのセッションだったと思う。

そして、昨日、迷子になっていた猫が見える景色を必死に伝えてくれて、飼い主さんはすぐに心当たりを見に行ってくれ、無事見つかった、ということが、加わった。


コミュニケーターはただ誠実に受信と伝達をするだけで、事象に責任を負う必要はない、とはいうし、そういうスタンスが自分にもあるにはあるけれど、やはりことがことだと責任重大に感じてしまうのは否めない。

そしてつくづく「毎回綱渡りのコミュニケーションだよな〜」とも思う(笑)
だって毎回終わって結果を知って、全力で胸を撫で下ろしてるもん。
そして感動と感謝でいっぱいの気持ちになる。
やってよかった、と思う。やらせていただいてありがとう、と思う。

でも、残念なことに外れていたリーディングやコミュニケーションももちろんある。
(だから私の不安や恐怖は消えないのだ)
幸い、命に関わるところでは今のところないのが救い。




私が最初に学んだアニマルコミュニケーションは、まずは動物を見て何を感じるか10種類くらいのシンプルな感情から選び取ることだった。
そしてそんな子に何と言ってあげればいいか考えることだった。

そのうちオーラを見て描いてリーディングする方法を学んだ。
実際の動物を見て描くのはなんとかなるけれど、遠隔で写真を見るだけでやるのはやりにくい、と感じていた。
でも写真ばかりでやっていたらいつの間にかその不得意感は無くなっていた。

オーラだって肉眼で見えないから苦しんだ。
オーラを肉眼で見ましょう、という別の講座も出た。(ちょっとだけ見えた)
特にエネルギーワークやコミュニケーションなどをやっていない人から「肉眼でオーラが見えた」などと聞くと内心焦り、羨ましく思ったものだった。
でも「私は第三の眼で視るタイプ、とっとと視えるからかえっていいや」と思うようになった。

長いスクールを卒業し、個人で働く形でセッションを始めた。

そのうち「テレパシーもできないとだめじゃん?」と思い本を読んで自己流で取り組んだ。
それから講習にも出てみて、徐々に自分のコミュニケーションに取り入れるようになった。

そのうち、亡くなった動物の魂とやり始めた。

そして、初めて、行方不明になってしまった動物とコミュニケーションをした。
そんなの自分にできるわけがない、と思っていたのに。


まだ十年にも満たないから、まだまだ。でも山を登っているんだなぁ、と思う。
だいぶ休憩やお弁当タイムが多いようだが。


一度、オーラリーディングをやめようと思ったことがある。
でも数十年働き続けている夫から
「十年はやりな。じゃないと本当のところはわからない。それから決めな。」とキッパリ言われ、
ううー、と思いながらも「それもそうかな」と思い、そうすることにした。




アニマルコミュニケーションの中でよく浮上する問題は、
「自分の動物とアニマルコミュニケーションをするのは難しい」ということ、
「迷い動物はやらないコミュニケーターが多い」ということ、
そして
「自分が死んで死後の世界を見たわけでもないのに、亡くなった動物のあれこれを言って、それは本当なのか」ということ。


でも、自分の犬の琴が他のコミュニケーターさんとはあまり話したがらず、
「なんでママがやってくれないの?」という思いをぶつけてきたこと、

そして、昨日の体験、

そして亡くなった子へ後悔や懺悔の気持ちを持っている飼い主があまりに多いこと、

などを通して、難しいことこそ実は動物と飼い主にとって最も必要なコミュニケーションであることが多いのでは、ということに気づく。


逃げていては始まらない、と。
やらない理由を探していてもしょうがいない、と。


私は常に不安だ。
不安で不安でしょうがない。
取りかかるのが億劫でぐずぐずしていることもしょっちゅうだ。
自信が無いし、テレパシー中に寝ちゃったらどうしよう、とかくだらない心配もする。
責任重大なんじゃないか、と怖くて怖くてしょうがない。

カフェイン摂っちゃったしな、生理前だしな、とかいろいろな不安要素に目がいったりもする。

でも、コーヒーやアルコールを摂取後突然コミュニケーションやることになることもあり、なんとかできたし、激しい生理痛の中、手すりにすがり、壁をつたうようにしてクライアント先に行ったこともある。(その時はセッション中は全く痛くなくて、終わってお客さんと別れたあと、またモーレツに痛みだし、すがってつたって帰った(笑))


結局自分が心配していること、苦手意識を持っていること、は、全く関係ないのだ。

やるなら、やる。

それだけだ。



「コミュニケーターは黒子であれ」(ホクロじゃないですよ)
最初の先生に言われた言葉。



私は道具だ。

動物が伝えたいことを伝える道具として使われたい。


たのむから、私を道具として使って。
神様、ハイヤーセルフ、コミュニケーションのガイド。
お願いだから。


その思いだけだ。

道具だから、道具なんだ。

ああ、使われたい。


そして、使ってもらえた時、
結果、動物さんと飼い主さんがHappyになった時、


私もHappy。