掃除機をかける間は無心になっているせいか、風太のことばかりが浮かんできて、いろんな想いがつのって涙が出てくるので、掃除機タイムは嫌いでした。
(だから掃除しないのよ!という言い訳ではない(笑))
iPodで脳天に直接陽気な音楽を流し込んでも、だめでした。
元気になったつもりで、まだまだなんだ、と思い知らされました。
でもここ2回くらい、泣いてないかも知れません。
これもひとつ、山を越えたというのかなぁ…
風太が逝ってしまったあと、
もう生きている意味がない
と心底思いました。
夫や琴や親や兄弟がいることは別の次元の話なんです。
そんなことはわかっているのです。
でも、
自ら死のうとは思わないけれど、死んでしまってもいい
と思っていました。
大河ドラマ江で茶々が幼い息子を亡くした時、
「私も死ぬ」
と言っていましたが、その気持ちがよくわかりました。
実際死ななくても、そういう気持ちになるということです。
死んだところで風太との生活が戻ってくるわけでもないし、中間世での居場所もちがうんだけれども、風太が経験した“死”を私も経験したい、と思いました。
でも風太が経験してきたことすべてを私が体験してきたわけではない。
多くの時をいっしょに過ごしたけれども、
足あげおしっこも、塩味のないごはんを食べることも、ひょいっと夫に抱っこされることも、全身の毛を感じることも、四つん這いで外を歩くことも、獣医さんで台にのせられて爪を切られることも、琴のお尻の匂いを嗅ぐことも、吠え声だけで訴えようとすることも、
私は体験するわけではないのです。
「ああ、全部いっしょってわけにはいかないんだなぁ」
と当たり前のことですが悟り、自らを納得させました。
私が死ぬ時、「ああ、風太もこうだったのかな」と思うかもしれませんが、その頃風太の魂だって何度か生まれ変わっていて「いつのこと?」なんて言われるかもしれません(笑)
風太が長い寿命を幸せに生き切ったことは事実だし、
もっと苦労されて、もっと命がけで、もっと辛い人がいるのはわかっていても、
私は、世界一不幸だと思っていました。
幸せが主観なら、不幸せも主観。
私は世界一、不幸せで悲しい。
そう思っていました。
アニマルコミュニケーション?
ああ、そんなの、やってたね。
よそのおうちの動物さんにまわす力なんて、ないよ。
元気って何?
思い出せないよ。
長い間頭がぼーっとして、感覚も集中力も鈍り、何を食べてもおいしくなく、身体もだるく、エネルギーが完全に枯渇。
ただ、泣いている時だけに、生きている感覚が戻ってきました。
そんなだった自分が、
「元気になりたい!」と思い
「アニマルコミュニケーションをしたい!」と思い
「あれ食べたい」「あれができたい」「あれがほしい」と思い
「あ〜けっこうしあわせ」
と、思えるようになってきました。
悲しみとか寂しさとか、そんなの、簡単に癒えないよ!
いっぱい後悔もあるよ!
…と今もこぶしにぎって力説できますが
琴とのふたりの日中の生活が普通になってきた感も出てきました。
動物と暮らしている人は、こんな話聞きたくないかも知れないし、
感じることや経過は人それぞれだけれど、
私の記録として、一犬ばかの記録として、記しておきたくなりました。
弱い私でも、掃除機かけても泣かない日が来るんだ、と。
2011.1.19